瞬きと共振

zine「瞬きと共振」に関連するコンテンツを掲載しています。

なぜ古典Zineをつくるのか

Zineを読んでくれた友人・知人から「昔から古典やってたんですか」「古典って訳せるんですね」「翻案って結局何なの」「なんで作ったんですか」など、さまざまコメントいただいたのでその辺について少し書きます。

 

昔から古典やってたんですか

大学時代に古典を学んでいました。江戸前期の書肆学(今でいう出版活動についての学問)が一番好きでしたが、演習でZineの原案にもなった浮世草子(小説)も読んでいました。「やっていた」の度合いはともかく、高校国語で古典とさよならした方たちよりは、触っていた時間は長いかもしれません。ちなみに、書肆学が好きだったのは、民間での出版活動が活発になり「文学の商品化」が始まったのが江戸前期なのですが、黎明期ならではの「何やってもいいんだよ!売れるなら!」みたいなカオスっぷりに人間の俗っぽさが詰まってておもしろかったからです。あと、文学に値段をつけるってよくよく考えるとクレイジーだなと講義受けながら思ったことを時々思い出す。

古典って訳せるんですね&翻案って結局何なの

そもそも、高校までに習った古典は、やたら文法を覚えさせられたり、枕草子徒然草平家物語の冒頭部分だけを覚えさせられたりした記憶しかなく、江戸時代の古典って何?となる方がほとんどだと思うんですよね。

江戸時代の文学はそれほど難しくないです。分からないところだけ辞書(日本国語大辞典がおすすめです)を引いたり、訳注をたどっていけば話は把握できます。

ただ、そのまま訳してもおもしろいかはまた別問題で、自分に引き付けて読める部分がないと「ふ〜ん、それで」で終わってしまうのはどのジャンルにおいても同じかと思います。だから、今回のZineでは「翻案」にしました。

翻案とは、日本国語大辞典によると「① 前人が作っておいた趣意を言いかえ作りかえること。また、事実を作りかえて言うこと。② 自国の古典や外国の小説、戯曲などの大体の筋・内容を借り人情、風俗、地名、人名などに私意を加えて改作すること。」

Zineにするにあたって、原案に書いてない人の感情もバンバン加筆してるし、地名はボカしたし、人名も変えました。そこまでやって、350年前を生きた登場人物も「見合い結婚クソだな」ってキレてたり、「権力あったら何してもええんか!?」と憤ったり、「なんで好きな人と一緒におれんのや〜」と無力を嘆いたり、私たちと同じようなことを思っていたことが伝わると考えたからです。(いま例に挙げたこと全部Zineに出てくる)

古典を下敷きにした文学作品について。国語の教科書に載っている、で有名な芥川龍之介の『羅生門』は『今昔物語集』を基にしています。また、今回のZineの原案の一つでもある『西鶴諸国ばなし』を含む井原西鶴の短編にアレンジを加えたのが太宰治の『新釈諸国噺』です。序文で太宰は西鶴のことを「世界で一ばん偉い作家である。」と書いています。

なんで作ったんですか

Zineのあとがきに「(このZineをつくることは)私にとってやるべきことだったのだと思う」と書きました。基本的に答えはこれしかないのですがもう少しだけ丁寧に言うと、「未だに『古典はもうやらなくていいかな』とは思ってない。おもしろいことはいろんな人に覚えててほしい」からです。それだけです。

 

結局どんなZineなの?については、試し読みを公開しているのでそちらをぜひ。

matatakitokyoshin.hatenablog.com

購入について

▼10Zine佐賀 2022年 5/7(土)〜 5/15(日)
@PERHAPS(佐賀県佐賀市水ヶ江1-2-16)
詳細→http://10zine.org/archives/4496
▼郵送販売
現在、郵送での販売を行なっております。ご購入のお申し込みはこちらから。https://forms.gle/rzbdWfXTTibkSVTg8

▼書店販売

本のあるところajiro(福岡・天神北)


その他、取扱書店や出展イベントについてはSNSにて随時お知らせいたします。
立野 https://www.instagram.com/yrkttn13/
松本 https://www.instagram.com/necoze326/

このZineに関するお問い合わせは下記にお願いいたします。

matatakitokyoshin@gmail.com

【試し読み】駆け抜けてゆく(原案『世間娘気質』)

Zine『瞬きと共振』より、「駆け抜けてゆく」(原案『世間娘気質』)の一部を試し読み公開いたします。

 

駆け抜けてゆく

 駆け出す前のようにふくらはぎがうずうずする。つま先で宙を蹴ると空気がしなった。早く「あの人」を追いかけないといけない。  

 花 野は足が速い子どもだった。どこへでも駆けていける。なんでも手に入れられる。足が動くままどんな遠いところにも駆けていった。その先にあるものが必ず自分を楽しませるとわかっていたから。時々は周りに理解されないものに熱狂することもあった。隣町の池にいる、羽がほんの少しばかり青く見える鴨とか。首を傾げられてもどうでもよかった。自分の渇望を自分で満たしたことが誇らしかった。車も人も一緒くたに回されている大きな道も、建物と建物の間の薄暗い道も、地面を弾ませながら風のように走った。

「女の子が走り回るものではありません。みっともない」母親は何度も小言を言った。花野は聞く耳を持たなかった。母親は走れないから何も手に入れられないのだと心の中で哀れんだ。  十二のとき生理が始まって、走るのが億劫になった。足は重たく、弱くなった。その辺にいる鈍臭い女の子と変わらなくなってしまった、と生理を憎んだ。憎んでもなくなってくれないから諦めて、親の言うままに過ごした。両親は花野がおとなしくなったことを喜んだ。十代の終わりに結婚した。これも両親の言うままだった。  

 夫は愚鈍で、老け顔で鼻が低かった。そのくせ、花野がかいがいしく世話を焼くことは当然のような顔で受け入れていた。花野は世の中の男なんて大体全員こんなものなのだと自分に言い聞かせて、ひたすら家事と節約と夫の世話に没頭した。    

 「あの人」に出会ったのは劇場だった。はじめ、たくさんの照明を向けられているから輝いているのだと思った。しばらくして街中ですれちがった時、光は当たっていないのにやはり輝いていた。甘い稲妻が腰からくるぶしまで突き抜ける。花が開くように足の細胞が喜びに震えているのがわかった。足は子どもの頃の軽さを取り戻した。確信した。この人を追いかけなくてはいけない。すぐさま駆け出そうとする足をなだめる。もうちょっとだけ待っていて。

 まずは、この家を出て行かねば。花野は家のことをちゃんとやるのをやめた。洗濯物をくしゃくしゃのままたんすに突っ込み、買ってきた野菜を腐らせ、明かりをつけっぱなしにした。夫と一緒に寝るのをやめた。文句を言う夫と言い争いになった。  

「私のことが気に入らないならなぜ奥さんにしているの? あれが嫌だ、ここが気になるってだらだら眺めて文句を言って…嫌なら別れたらいいじゃない」  そう言い捨てると泣きながら実家に駆け込んだ。  

「ずっと我慢していたけれど私もう限界。夫は酔っぱらったら『警官ごっこだ!』なんて言って、 私を縛り上げて刃物を持ち出して脅しつけるの。この前なんて本当に刺されるかと思ったわ。このままじゃ殺されてなにもかも終わりね。お父様とお母様に会えるのもこれが最後かも」  

 父親は怒り狂った。今すぐあいつをぶん殴ってやる! 本当に殴り込みに行きそうだった父親をなだめた。嘘がばれてはかなわない。こうして花野は夫と暮らした家を出ていくことに成功した。

 

つづく

 

書籍情報はこちら↓

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原案の現代語訳はこちら↓

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Zine『瞬きと共振』の企画・制作振り返り

Zine『瞬きと共振』とは

立野由利子と松本千里が合作で制作したZineです。江戸時代に書かれた浮世草子7編を文章とグラフィックで再解釈しています。

企画と制作について

グラフィックデザイナーの松本さんとなにか一緒に作りたいと思っていた私は、福岡で毎年行われるイベント・10zineに出展する予定で2022年の年明けから企画を考えていきました。私が大学時代に江戸時代の古典を学んでいたこと、松本さんが浮世絵をベースにイラストを描いていたことから「江戸時代」をテーマに何かしようという話になりました。
原案となる浮世草子の話は「愛していたい。(でもそれだけのことが下手くそ)」というテーマで選んでいます。SNSや周りを見ていて「愛していたいのにそれがうまくいかない」「人との距離感がうまくつかめない」ことにもがいている人がたくさんいると感じていたし、浮世草子に描かれる人物たちともそういったところがリンクするのではないかと思ったからです。愛していたい、というのは恋愛に限定した話ではなく、たとえば風景や生活、自分自身の生き方などあらゆるものを含んでいます。
10zineのレコメンドで「300年前のSF、推し、フェミニズム」というワードをいただきましたが、そういったテーマに関わる話も意図的に選びました。

タイトルについて

自分が古典について感じてること、今回のZineでやりたいことを考えた時に頭に浮かんだイメージは瞬く光、体に伝わる振動のようなものでした。要は、「伝達と共感」なのですがもっと身体感覚に根差した言葉として「瞬きと共振」としました。制作当時、松本さんにタイトルについて送った文章をほぼそのまま転記します。

共振...昔を生きた人の気持ちが今の私たちの心に振動をもたらす、というのを伝えたい。「共感」ではないことがポイントです。
瞬き...翻案ってなんなんだろうと考えたときに頭に浮かんだイメージが「無数の小さな光(言葉や心の動きのようなもの)が風に乗って飛んでくるのを側で受け止めて、それを逆側に振り直してまた飛ばしていく」その飛んできたものを表すなら「瞬き」だなと思いました。
共振は振動なのでどちらかといえば音で、瞬きは「光の明滅」という意味があるので、視覚と聴覚どちらにも働きかけてる感じがいいな、と。
文章について

今回行ったのは、現代語訳ではなく翻案・再解釈といわれる類のものになります。ただ現代語訳するだけでは、時代や場所といった制約から物語が抜け出せないのではないかと思ったからです。タイトルを変える、登場人物の名前を新しくつける、原案になかったセリフをつくる、など自分なりの視点で再解釈しながら様々なことを行いましたが、一貫して「物語の終わりは変えない」ことだけは決めていました。また、一般的に「弱者」や「被害者」、「マイノリティ」と言われるような属性の人物たちも登場しますが、彼らをラベルに沿って描くのではなく、彼らなりのエゴを持っていることも示したいと思っていました。
原案となる浮世草子の作者は、井原西鶴、江島其磧、北条団水といずれも江戸前期の上方文学で活躍した人物です。彼らが物語を生み出した時代から350年ほど経っていることもあり、特に女性の描き方は大きく変わったのではないかと思います。どの話も現代の物語として読めると思いますし、言葉も難しいものは使っていません。現代語訳は当ブログに掲載しておりますので、よろしければそちらもご覧ください。

デザインについて

松本さんには、表紙・各話扉絵のグラフィックと冊子全体の組版をやっていただきました。
表紙については、タイトル決めのときに松本さんに送った文章を読んで、整列された円形のグラフィックが浮かんだとのこと。そこから、私たちの共通のワードとして「ビー玉」が出てきて、球体のなかにいろんな柄が入ってるみたいな絵面の表紙になりました。
扉絵については、私が松本さんにお送りした現代語訳と各話のキーワードを基につくっていただきました。共作するにあたって「言葉のつじつま合わせになるようなグラフィックはやめましょう」とお互いに話していました。それぞれが物語から感じたことは重なる部分も重ならない部分もあるのですが、だからこそ文章とグラフィックを合わせたときに良いぶつかりが生まれることを意図して制作していました。
松本さんのグラフィックによって、物語の新たな面が文章とは違う形で立ち現れたなと感じています。

ちなみに、本記事で書いた内容とそのこぼれ話について話したインスタライブを先日行いました。お互いの思い入れのある物語やひそかに決めていたこと、サマーウォーズのクライマックスさながらの入稿に至るまでなどざっくばらんに語っております。ネコが松本さん、ペンギンが立野です。ラジオがわりにお楽しみください。

https://www.instagram.com/tv/CbkVG5CDK2T/?utm_source=ig_web_copy_link(前半)

https://www.instagram.com/tv/CbkbuCSD12P/?utm_source=ig_web_copy_link(後半)

書籍情報

『瞬きと共振』立野由利子 松本千里
B6/40P/700円(税抜)
表紙:フルカラー、中面:モノクロ

購入について

▼10Zine佐賀 2022年 5/7(土)〜 5/15(日)
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詳細→http://10zine.org/archives/4496
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現在、郵送での販売を行なっております。ご購入のお申し込みはこちらから。
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▼書店販売

本のあるところajiro(福岡・天神北)
その他、取扱書店や出展イベントについてはSNSにて随時お知らせいたします。
立野 https://www.instagram.com/yrkttn13/
松本 https://www.instagram.com/necoze326/

このZineに関するお問い合わせは下記にお願いいたします。

matatakitokyoshin@gmail.com

「念佛寺の和尚これは迷惑」現代語訳

 曽祖父は信州桔梗が原で甲首を取り、それから相続いて武家の家筋は劣らない。代々嘘をつかず、盗みもしない。出頭方(主君の近侍)におべっかを言わず、冬も頭巾を被らず足袋も履かない。しかめっ面をしてキッとした勤め顔をする侍は、大方時の運に恵まれなくて家を失い先祖に不孝する類の人間だという。命を軽くして義を守る武士ですら、穏やかになるほど平和な世の中なので、まして工商農に従事する人間は利益や損失のことばかり考えている。医者は人の命を請け負って、僧侶も人々を教え、極楽に導くだけでは世を渡っていくことは難しい。借金のあっせんや婚礼の仲立ち、養子の世話、資本主、月々に返済するお金、こういったものを操る方法を工夫する者を知恵者と名付けている。

 昔、和泉国の浅井家の侍、庄田助八のところに念佛寺の和尚が珍しくやってきた。

「同僚である武林重三郎の妻に助八様の妹さんはどうかと、仲を取り持ちたく参りました。お二人はお互いをよく知っているので、こちらから特に申し上げることはないのですが。私がこちらに参ったのもきっと何か縁があってのことだと思うので、ご意向を伺いたく存じます」としみじみと挨拶する。助八は目をかけてもらったことがありがたく、「よそに嫁にやるぐらいなら、仲間同然の重三郎と結婚させます。仲立ちをお願いします」と承諾した。和尚は満足して、重三郎にも内々に話をした。さて、和尚の仲立ちが噂になると、重三郎は親戚である芦間平内澤田九郎右衛門に世話を焼かせて、組頭、老中、太守の耳にも入った。こうして首尾良く準備をして、さっそく祝言を挙げた。その後、助八と重三郎が念佛寺の和尚を訪ねて礼を言うと、和尚は「この婚礼のことは知らなかった。お祝いの言葉も申し上げません」と言うので、二人は目を合わせて訝しがった。一体何がどうなっているのか。わからないことばかりだがとにかくその日は別れて帰った。その日の夜、助八の家の寝室に念佛寺の和尚が訪ねてきた。驚く助八に和尚は話す。

「驚くのも無理はありません。真実を申し上げると、私の正体は狐です。いつぞや城守が鹿狩りをした時に死にかけたのを重三郎殿が助けてくれました。それから重三郎殿を陰から見守っていると、あなたの妹に恋煩いをしていることが分かったのです。手助けしてやりたいけどこの姿ではどうしようもない。そこで念佛寺の和尚に化けて結婚の仲立ちをしたのです。あなたが結婚を承諾してくれて本当によかった。感謝しています。これからずっと両家のご武運を強く守ります」そう言って、姿を消した。

 その後、和泉国の境にある山口の空き寺に盗賊が立て篭もったことがあった。助八と重三郎は討ち手に任じられ、寺に向かっていたところ、寺の裏門からも助八と重三郎と同じ格好をした男が盗賊たちを取り囲んだ。前後を囲まれた盗賊たちは、自分たちの目的が叶わないと思ったのか全員自害して死んでしまった。本物の助八と重三郎はそのことを知らず、表門から塀を乗り越えて、垣を破って乱入したが、迎え撃つ者はおらず全員が自害していた。その首をはねて、梟木(さらし首をのせる木)にのせた。これらの武功によって、二人とも給料が上がり、昇進したことは広く知られている。

 さて、狐は人を騙すほどの知恵を持っていて、仇をなすこともあれば恩に報いようとすることもある。人として恩知らずであることは野狐にすら劣っている。禅に熱心で、悟りを開く狐は人が気恥ずかしくなるほど優れていることは言うまでもない。

 

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北条団水『一夜船』 巻四の三「念佛寺の和尚これは迷惑」

*Zine『瞬きと共振』では「空に放る願い」というタイトルで翻案しました。

このページの現代語訳は立野が行いました。

「詠めつづけし老木の花の頃」現代語訳

「御痔の薬あり、万によし」と板きれに書きつけた看板の店がある。一間間口に障子と簾をかけているし、看板もいかにも老人が書いた字なので客はめったに来ないし生活の足しにもならない。

 この物寂しい家は、谷中の門前筋にある。軒先の松はねじけ、ノウゼンカズラの花がやさしく咲き乱れていた。庭では夏菊を育てていて、井戸の水は清く澄んで跳ね鶴瓶の立木にカラスがおかしげに止まっている。主人はみすぼらしい浪人で、若い時から奉公のアテがなくなってしまい、それまでに蓄えていた諸道具を売ることでなんとか食いつないできた。友人は碁の相手となってくれる年齢が同じぐらいの老人で、それ以外にはまだら模様の狆(ちん)一匹ぐらいのもので、訪ねてくる人はいなかった。

 ある日、汗が帷子を濡らし、扇をあおぐ手もだるくなるほどの暑さだったので、夕方に行水をした。汗を流していると友人がやってきた。主人の後ろ姿を見て「(昔と比べて)こんなにも変わってしまうものなんだな」と背骨のふしくれだったのを撫で下ろす。腰から下の皺を悲しみながら「『高歌一曲明鏡を掩う、昨日は少年今日は白頭』と中国の詩人が作ったというけれど、自分たちの身が変わっていくことが悲しくてしかたがない。あなたにさんさ節を歌わせて楽しく戯れていた時代もあったのに」と、手と手を取り合って行水の湯が水になるまで嘆いた。ただの友人と思われたこの二人だが、詳しく聞くと恋人関係だった。この二人は筑前(福岡)の出身で、一人は玉嶋主水といって飛ぶ鳥も落とすほどの美形で、博多の遊郭の遊女かと見た人が思うほどの美貌を持っていた。もう一人は、豊田半右衛門という武芸に優れた侍で、主水に深く思いを寄せていた。主水も半右衛門の思いに答えるようになり、主水が十六歳、半右衛門が十九歳の時に衆道の契りを結んだ。お互いに海の中道のように深く愛し合っているうちに別の男が主水を好きになり、しかも諦めることがなかった。周りが竈山の火桜かと思うほど焚き付けたこともあり、果たし合いをすることになった。その日の夜、主水と半右衛門は幸いの橋で落ち合い、首尾よく果たし合いの相手の男を取り巻き共々討ち果たした。その夜、宗像の方から船に乗って逃げ、世間から離れた存在となって今に至る。

 今年主水は六十三才、半右衛門は六十六才になるが、今でも昔と変わらぬ思いで、二人とも全く女の顔を見ずに暮らしてきた。これは恋の道の鑑のようなことだ。半右衛門は今でも主水を若かった頃のように扱い、白髪頭に髪油をつけ、巻立に結い直すのもおかしかった。よく見ると主水の額には男性が成人の時に入れる髪の毛の剃り込みがない。生まれつきの丸額のままだった。主水もていねいに歯を磨いたり、髭を抜いたりと身だしなみには気を払っている。知らない人が見たら恋からの行動、それも衆道ゆえのものとはわからないだろう。

ところで、大名に寵愛された小姓が成長して妻子を持った後までも、殿は何となく当時のことを忘れずにいらっしゃるというが、とてもすばらしいことだと思う。そう考えると、男色は女色とは違う格別なものだ。女との関係はかりそめだが、若衆の美しさはその道に至らなくてはわかるものではない。全く女はいやらしいものだと、二人は隣家に住む夫婦とも交流せず、なんなら喧嘩の声が聞こえてきても「自分たちが損するだけだ」と仲裁に行くこともなかった。それどころか、壁越しに夫に加勢し「亭主、妻なんか叩き殺して男色の相手でも家に置いたらどうだ」と歯ぎしりするのもおかしかった。

 上野の山に春が訪れて、桜を見にくる人々を招き、池田・伊丹・鴻池でつくられた清酒も売り切れるほどの賑わいだった。天も酔っぱらい、地には物欲しそうな足音がする。二人は家の中から足音で男女を聞き分けて、男の時はもしかしたら若衆かもしれない、と外に走り出て眺めて、女の時は戸口を閉ざして、味気ない心で静まり返っていた。

 春は天気が変わりやすい季節。急に雨が降り始めて、花見に来ていた女性たちも散り散りになって今日の名残を惜しんでいると、女性たちの一群が、二人が住んでいる家の軒陰で雨宿りしながら「この辺りに煎じ茶を淹れてくれて、夜遅くまで遊び、傘を貸してくれて、都合によっては晩ごはんも振る舞ってくれる家があったら食べて帰るのに。この辺りにはアテがない」と言いながら、出しゃばった女性が戸を少し開けて中をのぞき込んだ。半右衛門は「汚らしい!」と竹箒を振り回しながら罵って追い払った。女性たちがいた跡に乾いた砂をまいて、何度も何度も地面を擦ってならして、塩水で清めた。これほどの女嫌いは広い江戸の中でも類を見ない。 

 

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井原西鶴 『男色大鑑』 巻四の四「詠めつづけし老木の花の頃」

*Zine『瞬きと共振』では「なんでもない二人」というタイトルで翻案しました。

このページの現代語訳は立野が行いました。

「名残の人形は物いわぬ鴛鴦の池」現代語訳

 柳も桜も葉が落ちてしまって、年寄りの姿を見ているようだ。冬の山は活気がなく、物寂しい。東山から斜めに、北山の在郷道を行くと、松のこずえに吹く風ばかり聞こえる。春になればこの辺りも人が集まる山になるのだが、寒い冬は京の遊び好きも外に出ようとは思わない。麓に遠い森の影に、幕が張りめぐらされていて、今は見るものもないのに、酒に酔った人の小唄や女性の声もする。少しうらやましい気持ちになった。やはり奥の松の木の間に浅黄色に紅葉の染み込んだような絹幕が見えて、琴の音がかすかに耳に届いた。都ならではの光景だと思う。霜月の末に野遊山の幕を所々で見るのは他の場所ではないことだろう。冬になって草木が枯れるのと同じようになっていた気持ちも、なんとなくはんなりとして岡の細道をずっと進んでいくと、龍安寺の池の端に着いた。

 ここでもまた面白いことをやっている。岸の枯芝の上に氈敷を並べて池のおしどりがメスをめぐって争っているのを見ることが近年流行っていて、毎日人が絶えることがない。これも京の冬の一つの光景だと話しているうちに、水際の草庵から法師が出てきて、おしどりたちに餌をやると鳥たちがわーっと集まってくるので、水を紅に彩り、波に白玉を散らしたようになった。稲妻を久しぶりに見たように、昼も夜もわきまえずみんな遊興している。

 同じ遊山と言いながら、若い後家がおしどりの戯れを見に来るのは、かっこいい男たちの喧嘩を見に行くようなもので、風流を好むのに似ている。尼にもならず、髪を残して浅黄ちりめんの帽子の下から切った髪先を見せているのはしたたかさの表れだ。夫と死に別れてから、世間の恋愛話に夢中で、いつのまにか夫のことは顧みなくなっていた。形式的な念仏、香花も人が見るから世間体のためにやっている。三十五日の法要が過ぎるまでがもどかしく、こっそり薄くおしろいをはたいて、髪は品良く油をつけながら「茶筅髪」にして、色のついた下着を着ながら、上には無紋の小袖を着て、目立たないように上品さを保っていた。さて、世の中に化物と夫に義理立てして後家のまま暮らす女はいないものだ。上京の身分の高い男の妻だった若い後家は、都の中心部は騒がしくて俗世のことが耳に入るので、後世のことを祈るのに差し障ると言って、この辺りにきれいな草庵を建てて、そこで暮らしていた。表向きは茅の軒端で、奥には八畳二間の座敷がある。離れたところ壁の厚い六畳の間をつくっているのは、何をするための部屋か知りたいものだ。静かに心を澄ませて、朝晩、仏壇に向かって手を合わせていてなんて偉いんだろうと思ったら、そこにあったのは仏ではなく坂田藤十郎(この時代一番といっていいほど人気があった役者)の人形だった。どんな名手が作ったのか、さながら生き写しだった。上ずって枯れた声で「かわいやかわいや」とそのまませりふまで喋るんじゃないかと思うほど似ている。後家が人形を抱いて夜寝ていると、人形は汗をかいて生きているようにしばらく動くことがあった。

 知る人に事情を聞くと、この後家は立売(上京にある町)でよく知られたお花様という女性で、十九歳で夫と死に別れた。男の子一人を手代に渡して、仕事はすべて任せて、自分は芝居にばかり行っていた。藤十郎に心を尽くし、たくさん恋文を書いて口説いた。やっと木屋町の裏座敷で夢のような対面を果たした。その後は、役者の仕事に差し障るからと会ってくれなかったが今もなお恋焦がれている。この人形を作らせてまるで本人のように愛すること、今年で八年になる。これまで寵愛していた執念が通じたのかもしれない。近頃はより身動きするようになった。先日、藤十郎が死んで、もっと動くようになった。手足が動いて生きている人間のようだったが、話すことも笑うこともない。そのことを後家は嘆いた。今日は、おしどりの妻争いを見せようと人形を伴ってこの池に来たのだという。その隣に、紫の毛氈を敷いた派手な格好の女性がいる。髪は兵庫分けにして、雪より白い顔は凄まじく美しかった。下は緋色の綸子をまとっている。上は白いちりめんに祇園会の山鉾を墨絵に描かせて、所々を泥で隈取りしている。着物の前見頃を合わせた時に上側になるところに長刀鉾を、後ろの尻の辺りに船鉾を描いているのは浮気心の現れだというのは、若衆ならば理解できたが、女性の尻に船鉾は乗るところが違ったと笑いながら見ていると、隣にいる男はたしかに江戸の町人のようで、いかつく武士らしい佇まいだ。

 二人の状況を聞くと、女は吉原の遊郭太夫・花紫という遊女で、男は材木町の森という金持ちだった。最近、遊郭を出たという。上方に坂田藤十郎という、三都に並ぶものがない傾城買の名人がいることは関東にも知れ渡っていて、また他に真似できる役者もいないという。どのような男なのか一目見たい、と花紫は長年強く思っていたので、森は「来春伊勢に向けて移動する時に京にもついでに行こう」と言っていたが、人の命は明日どうなっているかもわからない、来年のことを言えば鬼が笑うともいう。ただただ一日でも健康なうちに早く見せてくれと望んで、女性の関所手形を申請した。十月二十日に江戸を発って、十一月一日の昼前に知恩院の古門前に着いて、その日は休んで、明日まずは東山に行こうと見物の相談をしていた。

 すると藤十郎が今朝亡くなったと聞こえてきた。はるばる江戸から来た甲斐がないと花紫は涙ぐんだが、せめておもかげの似ている役者の芝居でも見て帰ろうと男に相談していたら、お花後家のことを聞いた。そうして訪ねてきたのだ。お花後家にかぎらず、先ほど野遊山をしてい流ように見えた女性たちをはじめ、この人形のうわさを聞いて、藤十郎のおもかげを求めてくる女たちの山で池の辺りは錦を敷いたようになっていた。藤十郎様の人形を拝ませてください、と集まった数は夥しかった。お花後家は人形を台に乗せて静かに持ち出して、

「大事な人形だから皆一人ずつ見にきてちょうだい」と皆に言った。

 女たちは人形と対面して泣きながら髪を切ったり、「いつぞやは抱いてくれると思わせておきながら結局抱いてくれなかった。私はこれから何を楽しみに生きていけばいいの。この嘘つき」となじったりと、尋常ではない言動をとる。

 八十近いお婆さんが杖をつきながらやってきて、皆は「まさかあなたみたいなヨボヨボのおばあさんも藤十郎に恋をしていたの?」とクスクス笑う。おばあさんは

「違うよ。私の息子が藤十郎の芝居に狂ってしまって、家のことはほったらかしになってしまった。藤十郎の一重紙子のやつしに憧れてああなりたいと言っているうちに本当に貧乏になってしまって。どうせなら傾城を買えるぐらいの大金持ちの役に憧れたらよかったのに」と泣きながら人形に向かって恨み言を言う。藤十郎の噂はこの先もずっと尽きないだろうと都の男女は皆惜しんで嘆いた。

 

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江島其磧『寛濶役者片気』 上の四「名残の人形は物言わぬ鴛鴦の池

*Zine『瞬きと共振』では、「いつだって眩くいてほしい」というタイトルで翻案しました。

このページの現代語訳は立野が行いました。

「酔ざめの酒うらみ」現代語訳

 昔、唐の人がつくったものに「十分盃」というものがある。空の時は傾いているが、酒を注ぐと徐々にまっすぐになり、いっぱいに注いでしまうと全てこぼれる仕掛けがほどこされた、八分目までしか注げない盃だ。人の心を見つもる道具として、使われることが多かった。月も満ちた後は欠けていくのと同じ道理で、何事も八分目にしておいて間違いはない。なかでも、酒は九分目まで盃で受けてもこぼれやすい。上戸たちは相応に六分目ぐらいで飲むのが良いというのは、神酒大明神の御託宣である。日本は酒で治められてきた国だが、宴会では、終盤に「千秋楽」が謡われたときが酒盛りを終えるタイミングだと、百姓までも知っているべきだ。神代のヤマタノオロチも、酒を十分に飲むことは控えて、九つの壺にあった酒を飲み干しただけで、その身を滅ぼした。宋の詩人であり、墨で描いた竹の絵が有名な蘇東坡は、新酒の看板のために竹を描いたし、晋の詩人である劉伯倫は酒瓶を積んだ車の後ろに鋤を持たせた男を従え、「自分はどこで酒を飲んで死ぬかわからない。死んだら馬頭山の麓に埋めてくれ。土器の細工をする人の手にかかって、来世は酒徳利の原料である土になるのが願いだ」と話した。こういう人たちは。酒を好んでも酒に呑まれているわけではない。花が咲いている山や月を映す湖の風景に親しんで、詩文を作るには酒も必要なのだ。だが、今の人たちは理由もなく酒におぼれ、それぞれの家業をないがしろにしている。

 古の都と歌われる奈良は「南都諸白」という名の産地でもある。その土地柄からか樽の香りを習い覚えた、とにかく酒癖の悪い生駒屋の伝六という男がいた。百万の厨子という町に住んでいた。下女に上機で絹を織らせて、わずかな資本から徐々に儲けを出し始めた。時々はフカの刺身を食べ、春日野の桜を見に行くほどの余裕もできた。謡も自然と聞き覚えて、水屋能(水谷社の社人や禰宜たちが行う能)の見物に出かけて、禰宜たちの能を批評したこともあった。能を舞っていた社人の中に顔見知りがいて、挨拶をすると酒をたくさん振る舞われた。帰り道、三笠山が十四、五あるように見え、足元もおぼつかないほどに酔っていたが、不思議と自分の家には帰り着いた。家の門の辺りから騒いで、何の落ち度もない妻に「お前のことが嫌になった。今晩中に出て行け」と去状を書いて投げつけた。妻はこれまで繰り返されてきた酔っ払いの時の言動に嫌気が差していたので、渡りに船だと思いさっさと出て行った。

 その後、何人かが妻としてやってきたがすぐに離婚し、商売もうまくいかず収入も減っていた。ある時、また縁があって三輪の里から新しい妻がやってきた。この女性は、女神かと思うぐらい美しく、しかも夫を大事にして、忙しく働いた。五年ほどで家が栄えて、晒し布の仲買商となった。伝六は裕福な暮らしを喜んで「この家の宝は手足の動く女房だ。異国からきた三つの宝にも代えがたい」と自慢をすると、あんな奥さんを持った男は幸せだとみんなが羨ましがった。

 新年になると相生の門松を立てて、蓬莱の飾り物をする。奈良の都では西肴(三方や折敷に柑橘類、干し柿、梅干し、伊勢海老などを積んだもの。あるいは、ニシンやタニシを煮たもの)で正月を祝う。おのおの屠蘇を酌み交わして、木辻遊郭の正月買の話になった。この里の風習では、禿のつかない第三級の女郎も人気があった。義理立てのために客に尽くす女をこの年まで見たことがないが話を聞くだけでも酒が飲めるな、と伝六は酒を飲んでいたが急に何かに気を取られたように皆より先に家に戻った。いつものように妻に四の五の文句をぶつけ、妻に「俺のことを愛しているなら小指を切れ」と言った。妻は驚きながらも

「夫婦になった時から、私はすべてあなたのもの。さあ、一緒に眠って今年の幸せを夢にみましょう」

と言う。すると伝六は目の色を変えて

「さては俺を振ろうとしているな。さっさと指を切れよ。そうしないなら、今すぐ出て行って身上がり(遊女が自分でお金を払って休みを取ること)とやらをしろ」と、言い募る。妻は女心に悲しく思い

「ならば爪をはがしますから、それで堪忍してください」と泣きながら詫びた。だが、伝六はなかなか納得しない。

「せめて髪を切れ」と、女の結っていた髪を切り払った。妻はめまいがして心もぼろぼろで、悲しんだ。どうしようもなく、死にそうな気持ちになった。

 伝六はいびきをかいて前後不覚に寝てしまった。夜が明けて妻の変わり果てた姿を見てなげき悲しみ「世間体や親類の手前、お前の考えも恥ずかしい。あれこれ考えると生きてはいられない」と言って死のうとするのを妻はあの手この手で説得した。「もうこれからは酒を飲まない」と言って、酒も酒器もすべて処分した。妻の髪が伸びるまでは、赤手拭いを頭にかぶせていた。

 

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井原西鶴西鶴俗つれづれ』 巻三の四「酔ざめの酒うらみ」

*Zine『瞬きと共振』では「窓のない船室」というタイトルで翻案しました。

このページの現代語訳は立野が行いました。