【試し読み】駆け抜けてゆく(原案『世間娘気質』)
Zine『瞬きと共振』より、「駆け抜けてゆく」(原案『世間娘気質』)の一部を試し読み公開いたします。
駆け抜けてゆく
駆け出す前のようにふくらはぎがうずうずする。つま先で宙を蹴ると空気がしなった。早く「あの人」を追いかけないといけない。
花 野は足が速い子どもだった。どこへでも駆けていける。なんでも手に入れられる。足が動くままどんな遠いところにも駆けていった。その先にあるものが必ず自分を楽しませるとわかっていたから。時々は周りに理解されないものに熱狂することもあった。隣町の池にいる、羽がほんの少しばかり青く見える鴨とか。首を傾げられてもどうでもよかった。自分の渇望を自分で満たしたことが誇らしかった。車も人も一緒くたに回されている大きな道も、建物と建物の間の薄暗い道も、地面を弾ませながら風のように走った。
「女の子が走り回るものではありません。みっともない」母親は何度も小言を言った。花野は聞く耳を持たなかった。母親は走れないから何も手に入れられないのだと心の中で哀れんだ。 十二のとき生理が始まって、走るのが億劫になった。足は重たく、弱くなった。その辺にいる鈍臭い女の子と変わらなくなってしまった、と生理を憎んだ。憎んでもなくなってくれないから諦めて、親の言うままに過ごした。両親は花野がおとなしくなったことを喜んだ。十代の終わりに結婚した。これも両親の言うままだった。
夫は愚鈍で、老け顔で鼻が低かった。そのくせ、花野がかいがいしく世話を焼くことは当然のような顔で受け入れていた。花野は世の中の男なんて大体全員こんなものなのだと自分に言い聞かせて、ひたすら家事と節約と夫の世話に没頭した。
「あの人」に出会ったのは劇場だった。はじめ、たくさんの照明を向けられているから輝いているのだと思った。しばらくして街中ですれちがった時、光は当たっていないのにやはり輝いていた。甘い稲妻が腰からくるぶしまで突き抜ける。花が開くように足の細胞が喜びに震えているのがわかった。足は子どもの頃の軽さを取り戻した。確信した。この人を追いかけなくてはいけない。すぐさま駆け出そうとする足をなだめる。もうちょっとだけ待っていて。
まずは、この家を出て行かねば。花野は家のことをちゃんとやるのをやめた。洗濯物をくしゃくしゃのままたんすに突っ込み、買ってきた野菜を腐らせ、明かりをつけっぱなしにした。夫と一緒に寝るのをやめた。文句を言う夫と言い争いになった。
「私のことが気に入らないならなぜ奥さんにしているの? あれが嫌だ、ここが気になるってだらだら眺めて文句を言って…嫌なら別れたらいいじゃない」 そう言い捨てると泣きながら実家に駆け込んだ。
「ずっと我慢していたけれど私もう限界。夫は酔っぱらったら『警官ごっこだ!』なんて言って、 私を縛り上げて刃物を持ち出して脅しつけるの。この前なんて本当に刺されるかと思ったわ。このままじゃ殺されてなにもかも終わりね。お父様とお母様に会えるのもこれが最後かも」
父親は怒り狂った。今すぐあいつをぶん殴ってやる! 本当に殴り込みに行きそうだった父親をなだめた。嘘がばれてはかなわない。こうして花野は夫と暮らした家を出ていくことに成功した。
つづく
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