瞬きと共振

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「名残の人形は物いわぬ鴛鴦の池」現代語訳

 柳も桜も葉が落ちてしまって、年寄りの姿を見ているようだ。冬の山は活気がなく、物寂しい。東山から斜めに、北山の在郷道を行くと、松のこずえに吹く風ばかり聞こえる。春になればこの辺りも人が集まる山になるのだが、寒い冬は京の遊び好きも外に出ようとは思わない。麓に遠い森の影に、幕が張りめぐらされていて、今は見るものもないのに、酒に酔った人の小唄や女性の声もする。少しうらやましい気持ちになった。やはり奥の松の木の間に浅黄色に紅葉の染み込んだような絹幕が見えて、琴の音がかすかに耳に届いた。都ならではの光景だと思う。霜月の末に野遊山の幕を所々で見るのは他の場所ではないことだろう。冬になって草木が枯れるのと同じようになっていた気持ちも、なんとなくはんなりとして岡の細道をずっと進んでいくと、龍安寺の池の端に着いた。

 ここでもまた面白いことをやっている。岸の枯芝の上に氈敷を並べて池のおしどりがメスをめぐって争っているのを見ることが近年流行っていて、毎日人が絶えることがない。これも京の冬の一つの光景だと話しているうちに、水際の草庵から法師が出てきて、おしどりたちに餌をやると鳥たちがわーっと集まってくるので、水を紅に彩り、波に白玉を散らしたようになった。稲妻を久しぶりに見たように、昼も夜もわきまえずみんな遊興している。

 同じ遊山と言いながら、若い後家がおしどりの戯れを見に来るのは、かっこいい男たちの喧嘩を見に行くようなもので、風流を好むのに似ている。尼にもならず、髪を残して浅黄ちりめんの帽子の下から切った髪先を見せているのはしたたかさの表れだ。夫と死に別れてから、世間の恋愛話に夢中で、いつのまにか夫のことは顧みなくなっていた。形式的な念仏、香花も人が見るから世間体のためにやっている。三十五日の法要が過ぎるまでがもどかしく、こっそり薄くおしろいをはたいて、髪は品良く油をつけながら「茶筅髪」にして、色のついた下着を着ながら、上には無紋の小袖を着て、目立たないように上品さを保っていた。さて、世の中に化物と夫に義理立てして後家のまま暮らす女はいないものだ。上京の身分の高い男の妻だった若い後家は、都の中心部は騒がしくて俗世のことが耳に入るので、後世のことを祈るのに差し障ると言って、この辺りにきれいな草庵を建てて、そこで暮らしていた。表向きは茅の軒端で、奥には八畳二間の座敷がある。離れたところ壁の厚い六畳の間をつくっているのは、何をするための部屋か知りたいものだ。静かに心を澄ませて、朝晩、仏壇に向かって手を合わせていてなんて偉いんだろうと思ったら、そこにあったのは仏ではなく坂田藤十郎(この時代一番といっていいほど人気があった役者)の人形だった。どんな名手が作ったのか、さながら生き写しだった。上ずって枯れた声で「かわいやかわいや」とそのまませりふまで喋るんじゃないかと思うほど似ている。後家が人形を抱いて夜寝ていると、人形は汗をかいて生きているようにしばらく動くことがあった。

 知る人に事情を聞くと、この後家は立売(上京にある町)でよく知られたお花様という女性で、十九歳で夫と死に別れた。男の子一人を手代に渡して、仕事はすべて任せて、自分は芝居にばかり行っていた。藤十郎に心を尽くし、たくさん恋文を書いて口説いた。やっと木屋町の裏座敷で夢のような対面を果たした。その後は、役者の仕事に差し障るからと会ってくれなかったが今もなお恋焦がれている。この人形を作らせてまるで本人のように愛すること、今年で八年になる。これまで寵愛していた執念が通じたのかもしれない。近頃はより身動きするようになった。先日、藤十郎が死んで、もっと動くようになった。手足が動いて生きている人間のようだったが、話すことも笑うこともない。そのことを後家は嘆いた。今日は、おしどりの妻争いを見せようと人形を伴ってこの池に来たのだという。その隣に、紫の毛氈を敷いた派手な格好の女性がいる。髪は兵庫分けにして、雪より白い顔は凄まじく美しかった。下は緋色の綸子をまとっている。上は白いちりめんに祇園会の山鉾を墨絵に描かせて、所々を泥で隈取りしている。着物の前見頃を合わせた時に上側になるところに長刀鉾を、後ろの尻の辺りに船鉾を描いているのは浮気心の現れだというのは、若衆ならば理解できたが、女性の尻に船鉾は乗るところが違ったと笑いながら見ていると、隣にいる男はたしかに江戸の町人のようで、いかつく武士らしい佇まいだ。

 二人の状況を聞くと、女は吉原の遊郭太夫・花紫という遊女で、男は材木町の森という金持ちだった。最近、遊郭を出たという。上方に坂田藤十郎という、三都に並ぶものがない傾城買の名人がいることは関東にも知れ渡っていて、また他に真似できる役者もいないという。どのような男なのか一目見たい、と花紫は長年強く思っていたので、森は「来春伊勢に向けて移動する時に京にもついでに行こう」と言っていたが、人の命は明日どうなっているかもわからない、来年のことを言えば鬼が笑うともいう。ただただ一日でも健康なうちに早く見せてくれと望んで、女性の関所手形を申請した。十月二十日に江戸を発って、十一月一日の昼前に知恩院の古門前に着いて、その日は休んで、明日まずは東山に行こうと見物の相談をしていた。

 すると藤十郎が今朝亡くなったと聞こえてきた。はるばる江戸から来た甲斐がないと花紫は涙ぐんだが、せめておもかげの似ている役者の芝居でも見て帰ろうと男に相談していたら、お花後家のことを聞いた。そうして訪ねてきたのだ。お花後家にかぎらず、先ほど野遊山をしてい流ように見えた女性たちをはじめ、この人形のうわさを聞いて、藤十郎のおもかげを求めてくる女たちの山で池の辺りは錦を敷いたようになっていた。藤十郎様の人形を拝ませてください、と集まった数は夥しかった。お花後家は人形を台に乗せて静かに持ち出して、

「大事な人形だから皆一人ずつ見にきてちょうだい」と皆に言った。

 女たちは人形と対面して泣きながら髪を切ったり、「いつぞやは抱いてくれると思わせておきながら結局抱いてくれなかった。私はこれから何を楽しみに生きていけばいいの。この嘘つき」となじったりと、尋常ではない言動をとる。

 八十近いお婆さんが杖をつきながらやってきて、皆は「まさかあなたみたいなヨボヨボのおばあさんも藤十郎に恋をしていたの?」とクスクス笑う。おばあさんは

「違うよ。私の息子が藤十郎の芝居に狂ってしまって、家のことはほったらかしになってしまった。藤十郎の一重紙子のやつしに憧れてああなりたいと言っているうちに本当に貧乏になってしまって。どうせなら傾城を買えるぐらいの大金持ちの役に憧れたらよかったのに」と泣きながら人形に向かって恨み言を言う。藤十郎の噂はこの先もずっと尽きないだろうと都の男女は皆惜しんで嘆いた。

 

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江島其磧『寛濶役者片気』 上の四「名残の人形は物言わぬ鴛鴦の池

*Zine『瞬きと共振』では、「いつだって眩くいてほしい」というタイトルで翻案しました。

このページの現代語訳は立野が行いました。